挑戦の連続と成長
1作目の公演日までの稽古期間は1年に及びました。週2~3回の稽古が1年…しんどい!!!ビデオ屋、ボイトレ、稽古、脚本修正、演出構想…。1日たりとも休みはありません。寝る暇もありません。
1作で劇団は終わる予定だったので、この作品に私の人生観を全て詰め込む脚本にした為、なんと公演時間は3時間半の超大作に!!素人の集まりで3時間半の作品!とてつもない挑戦です。
内容はショーガールを中心として、オカマバー、なども取り込み、それはもう煌びやかなステージ。イメージは映画『バーレスク』の世界です。新宿のショーパブ、地元のオカマのママさんがいるお店に通い、本職の方達にたくさんアドバイスをいただきました。
私が劇団を立ち上げ、まず初めに行ったことは、銀行にお金を借りに行くところからスタート。これも相当な覚悟。公演が近づくとバイトに行ってる暇などありませんでした…。
しかし、1年かけた稽古なのにも関わらず、公演はたったの1日だけ。私達の愛するライブハウスを貸切って、1日昼夜公演のみ。有難いことにSOLD OUTしましたが、結局、借金だけが残る羽目に。
ですが力を貸して下さった皆様のおかげで、この作品は本当に良いものになり、2作目も期待しているとお客様からたくさんの声をいただく結果となりました。
劇団の大変さは死ぬほどわかってる。でもなによりお金が。私は心底悩みました。大人しくビデオ屋とボイストレーナーで地道に頑張るか。また劇団で全てを投げうり日々頑張るか。
1作目で主役兼、座長を努めてくれた女性ボーカリスト、そして役者兼大道具を努めてくれた警備員仲間の女の子、このお2人には、散々お金も時間も遣わせて負担をかけてしまったにも関わらず、2作目の話が出た時、とりあえずやってみましょう!と。2人が2作目の全面協力を快く引き受けてくれた事を今でも感謝しています。
間髪入れず、2作目の脚本制作がスタート。役者メンバーもフルチェンジ。2作目は序章、本編と半年、間を入れて2公演に分けることに。
2作目はバンドマンのみならず、ソロアーティストを多めに集めてみました。こちらも結果2公演に分けたので1年に渡り作品を作り上げる日々。途中、人間関係にも心底悩んだり。自分という人間と嫌というほど向き合いました。
この劇団を通して、私はあらゆることを学べたと思います。人を育てる、人を尊重する、自分の意見を伝える時の言葉の選び方、私への信頼が薄れると、全て一瞬で崩れてしまうので、一つ一つの発言、行動が命取りになります。本当に日々真剣でした。
1作目は勢いで乗り切っていたことが、2作目では慎重になりすぎて上手くいかないことも多く、心も身体もギリギリの状態で公演を迎えたことを今でも覚えています。公演後の集合写真を見ると、哀れなほどやつれ切っている(笑)。2作目の序章、本編と終え、私は劇団に終止符を打ちました。もっと自分の人生にゆとりを与えないと本当にマズイ…。
心も身体も崩壊寸前でした。バンド時代とは明らかに違う、裏方という立場での頭の使い方、人間関係。
本当に勉強になりました。
39歳、感謝の年「サンキューイヤー」
そのころ私は39歳目前になっていて、劇団も思う存分出来たし、これまでの人生、悔いなしだ!!とのんびりしていると、高校時代からの親友が『ねぇ、39歳ってこの1年しかないよね?』なんて当たり前な事をいきなり言ってきて、はぁ??と答えると、『39歳ってさ、サンキューイヤーでしょ?』と。
この親友が言いたかったことは、39歳はまわりに感謝を伝える1年だよ!と言いたかったみたいです(笑)。この親友の発信をキッカケに私達の39歳、何しようか?!というミーティングが始まりました。
親友は地元草加でエステサロンを経営しています。旦那さんを早くに病で亡くし、闘病中から必死に働いてきた苦労人。彼女なりに、ここまで生きてくるのに、たくさん勉強し、海外も飛び回り数々の資格を得て、自分を成長させていた人です。
私達に今できる事って、2人の経験、知識を重ね合わせたものを皆さんに発信共有する事だね!!と。そして感謝を伝える事だよね!!と。
そんな39歳、サンキューイヤーは年4回、春夏秋冬イベントを開催することになりました。美容家、食育家としての親友と、ミュージシャン、ボイストレーナー、劇団主催してきた私の知識の集大成で『ビューティーイベント』を立ち上げ。
ビューティシャンとミュージシャン!!毎回テーマを決め、美と食のお勉強会+音楽や朗読、ダンスで癒しを与える素敵なイベントが誕生しました。
ロックボーカリストとして長年活動し続けて、ロック以外にも挑戦してみたくなりまして、10代の頃のポップンキュートバンド時代のドラマーが、唯一当時音楽を続けていたこともあって、その彼と当時仲の良かったギタリストに声をかけ、ポップボサノバグループを結成。
なんと39歳のサンキューイヤーはのんびりボサノバを歌ってみました。
この一緒に主催していた親友は、現在も大親友で、エステサロンのみならず、最近では『OSEKKAi屋さん(お節介屋さん)』という、頑張る女性を対象にした新たな家事代行サービスもスタートさせて、相変わらず世の為人の為、活発に頑張っています。
こうして私の30代も終わり、40代に突入!!
今度こそ、結婚を考えたり、ますます落ち着く方向に人生は傾くはず!!だったのですが(残念なことに、ここでも結婚などのご縁には恵まれず…泣)、またもここから新たな学びの場に私は飛び込むことになります。
またかよ~。今度は何するん??笑
新たな挑戦:ライブハウススタッフとコロナ禍の気づきと
私が人生、最も重きを置き、生きてきた場所、「ライブハウス」。
20代、そして30代、劇団が始まる前まで共に戦い抜いてきたバンド(JARRING)のメンバーが、なんと浅草でライブハウスを立ち上げるということになり、気楽な思いで、じゃ手伝うよ!なんて言ってみたら話がどんどん進み、私も立派な立ち上げメンバーとして、ライブハウスに勤める事になるのです。
長く働いたビデオ屋、21年の勤務に幕を閉じ、盛大に送別会も開いていただき、40歳からなんとライブハウススタッフに!!
ここでは事務兼デザインを担当することになります。ここまで生い立ちを読んでいただければ事務なんてやったことない人生だとおわかりかと。一応高校は商業科出てますが、簿記なんてかすりも思い出せない…。
私は高校生の頃から、デザインも大好きで、当時は手書きでチラシを書いていたり、自身のバンドではセルフプロデュースでCDデザイン、ポスター、フライヤーなどもずっと独学でやってきていたので、それなりにデザインはこなすことが出来ていました。これが本職になる日がくるとは…。
これまでは9時~18時などのOLさんタイムがメインで働いてきていますが、ライブハウスは夜のお仕事。やっと劇団が終わって身体も落ち着いてきた頃なのに…
しかも事務なので1番早く出勤し、車通勤の私は終電を気にすることはないので最後まで残って店の掃除。毎日14時~25時が基本。忙しい日は朝までの勤務は当たり前。休みの日は相変わらずボイストレーニングの仕事をこなしていました。
これはまずい…。40代はこれまでと違って、すぐ身体に不調が現れます。
しかも、ビデオ屋退職前の最後の健康診断で、なんと大腸がん一歩手前で手術までしています。
どうなっちゃうんだ…。
しかし、私以外のスタッフはみんな月1.2日しか休みがありません。立ち上げ当初はスタッフを増やすことも出来ず。私はボイストレーニングの仕事を続けさせてもらうことを約束に入社してるので、月8回は必ずお休みをもらっていました。そんな状況の中、ワガママも言えず、ストレスは溜まるばかり。
しかし、ビデオ屋とは明らかに違い、毎日生の音楽を浴びれる。新しい仲間もたくさんできて、本当に楽しいと思える日々でした。
そんな中襲ってきたコロナ禍。ここがまた人生重要な分岐点となります。
この続きはまた次回にしたいと思います!
ある意味、このコロナ禍で私は本当に大切なもの、こと、に気付き、本気の人生がまた新たにスタートするのでした!!
長々読んでいただき、ありがとうございました!次回が最終回!!
MIKKOでした!またお会いしましょうヽ(^o^)丿
→次回は「Act4.コロナ禍での目覚め!本格ボイストレーナーとしての覚悟、ゴスペル教室も始動 — MIKKOの音楽物語」
2024/8/6公開