炎天下の7月16日(日)、二丁目の氷川神社で行われた「二丁目の獅子舞」を拝見しました。
実は長いコト八潮市民ですが、こちらに伺ったのは初めて。
記録写真として撮影したものですので、当初レポートとして記事を上げるつもりはなかったのですが、良い機会なので二丁目氷川神社と獅子舞について、chat AIシステム等で調べてみましたので、勉強がてら、あげておきます。参考になれば幸いです。
二丁目氷川神社は、恩田治部(寛永年間没)が神主となり、氷川明神を祀った後、久伊豆明神も配祀して氷川久伊豆合社と称しました。
明治四十二年には字下の稲荷神社と字若柳の稲荷神社が合祀され、氷川神社と改称されました。
『風土記稿』には、「氷川久伊豆合社であり、村の鎮守であり、村持ちの稲荷社と普門院の持ちである」と記されています。
伝承によれば、この地域の開拓者である恩田敬太郎家が草分けとなり、開発時に普門院を建立し、同院には恩田家の鬼門除けとして稲荷社が祀られたと言われています。
その後、恩田家の先祖である恩田治部(寛永年間没)が神主となり、氷川明神を祀るようになりました。明治初期まで、同家が神職として奉仕していました。
当初は氷川の神のみが祀られていましたが、後に久伊豆の神も配祀され、幣帛筥の蓋には「武州埼玉郡八条領二丁目村、正一位氷川大明神幣帛、正徳五年(1715年)二月十二日神祇管領兼敬」と記され、本殿棟札には「奉造栄□□正一位氷川大明神久伊豆大明神両神鋲座処、元文三稔戊午晩夏吉辰」と記されています。
これらの資料から、配祀が行われた時期を推測することができます。
恩田敬太郎家邸内にはお仮屋(御幣の間とも呼ばれる)があり、祭神として須佐之男命と大己貴命の本地仏が祀られていました。
ちなみに、二丁目は中川右岸の自然堤防上に発展した集落です。集落は上・下・若柳の三つの地域に分かれており、上には二丁目の本田方が位置しています。
二丁目の地名は条理遺構地名として知られ、中世の村落で多数の室町期の板碑が分布していました。
二丁目氷川神社の社号は、かつては氷川神社久伊豆神社合殿と呼ばれていましたが、明治四十二年に氷川神社と改称され、前述の通り、同年には下と若柳の稲荷神社が合祀され、現在の姿となりました。境内には推定500年の樹齢を持つ古い椎の木があります。
また、氷川神社の本殿と拝殿は嘉永元年(1848年)に再建されたと伝えられています。
二丁目の獅子舞は、氷川神社の祭礼である七月十五日に奉納されます。かつては明治四十二年までは、年に三回の奉納が行われており、七月十五日には上二丁目の氷川社、七月十六日には下二丁目の稲荷社、八月一日には若柳稲荷社で獅子舞が奉納されていましたが、現在は年に一回に改められています。
獅子舞の起源ははっきりとはわかっていませんが、明暦元年(1655年)ごろに草創一六軒が獅子舞を奉納したと伝えられています。
二丁目の獅子舞は、埼玉県東南部の埼葛南部・足立区・葛飾区にみられる竜頭舞であり、舞には花・女獅子隠し・笹・橋渡し・神幣・太刀などの七曲(しきょく)が掛かります。
また、獅子舞の特徴として、舞いの中で頻繁にかがむ姿勢をとることから、「田の草取り獅子」とも呼ばれることがあります。
舞の間には「千早振る神の斎垣に弓張りて、あたりを固めあらたかに」という拝歌が歌われます。さらに獅子宿では場謡が披露されるなど、二丁目の獅子舞は古式の祭礼儀式と舞が大切に継承されています。